2012年05月02日
もう一つの戦争 番外7
7.ボチさんへの通信3
ミミさんが亡くなって、俺らにとって近衞家は益々実感のない、縁遠いものとなって行きますね。
直系で言えば、長男(嫡男)のボチさんの血を引いたのは、俺ら唯一人。
「近衞」を名乗っていないから、直系は俺らで途絶える事になりますね。
貴方が芸者(若菜)に産ませた子、その子と芸者は、貴方が差し向けて呉れた人に依って、終戦の何ヵ月も前に満州を脱出する事が出来ました。あの脱出がなければ、此の親子はどうなっていた事か……。感謝してます。
「戦争が烈しくなります。美代子(若菜)さんは故郷に帰ってて下さい。戦争が終わったらキチンとしますから、それまでお腹の子を大事にして無事に産んで下さい。次に逢える時まで、楽しみに……」
という内容のボチさんの手紙を、86才になった美代子は、今も宝の様に大事に持ってます。母に死が訪れた時、その何通かの手紙を棺の中に入れてやろうと思ってます。
二十年前、此の手紙の写しをミミさんに見せたら、
「うーむ。兄貴の字体は優しかったんだな――。俺の字も何だか」と云い乍ら手帳を取り出し、自分の字と比べ出した。
それを見た俺らも手帳を出し見比べる。
何と! 三つの書体、字体が実に似ている。皆、柔かくて優し気で、一寸女性っぽい。DNAか……絆か、不思議な繋がりを思わせる感動でしたね。
若菜(美代子)が故郷に辿り着いて、暫くしたS19年9月28日、3400gの多い髪の毛に包(くる)まれて、男の子が誕生した。
名は、赴任先のボチさんからの手紙と、若菜の伝言を、何度も往き来して呉れた、ボチさんの親友秋本中尉に感謝して、一字を戴き、秋を明として「隆明」と名付けられました。
隆明誕生の一週間後、ハルピンで近衞文隆と大谷正子さんとの結婚式が挙げられた。
遠い日本の、和歌山の地で、若菜は知る由もない……。
ミミさんが亡くなって、俺らにとって近衞家は益々実感のない、縁遠いものとなって行きますね。
直系で言えば、長男(嫡男)のボチさんの血を引いたのは、俺ら唯一人。
「近衞」を名乗っていないから、直系は俺らで途絶える事になりますね。
貴方が芸者(若菜)に産ませた子、その子と芸者は、貴方が差し向けて呉れた人に依って、終戦の何ヵ月も前に満州を脱出する事が出来ました。あの脱出がなければ、此の親子はどうなっていた事か……。感謝してます。
「戦争が烈しくなります。美代子(若菜)さんは故郷に帰ってて下さい。戦争が終わったらキチンとしますから、それまでお腹の子を大事にして無事に産んで下さい。次に逢える時まで、楽しみに……」
という内容のボチさんの手紙を、86才になった美代子は、今も宝の様に大事に持ってます。母に死が訪れた時、その何通かの手紙を棺の中に入れてやろうと思ってます。
二十年前、此の手紙の写しをミミさんに見せたら、
「うーむ。兄貴の字体は優しかったんだな――。俺の字も何だか」と云い乍ら手帳を取り出し、自分の字と比べ出した。
それを見た俺らも手帳を出し見比べる。
何と! 三つの書体、字体が実に似ている。皆、柔かくて優し気で、一寸女性っぽい。DNAか……絆か、不思議な繋がりを思わせる感動でしたね。
若菜(美代子)が故郷に辿り着いて、暫くしたS19年9月28日、3400gの多い髪の毛に包(くる)まれて、男の子が誕生した。
名は、赴任先のボチさんからの手紙と、若菜の伝言を、何度も往き来して呉れた、ボチさんの親友秋本中尉に感謝して、一字を戴き、秋を明として「隆明」と名付けられました。
隆明誕生の一週間後、ハルピンで近衞文隆と大谷正子さんとの結婚式が挙げられた。
遠い日本の、和歌山の地で、若菜は知る由もない……。
つづく。
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16:52
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2012年04月13日
もう一つの戦争 番外6
6.ボチさんへの通信2
4月5日。正后から始まった「近衞通隆を偲ぶ会」
ボチさん、貴方の唯一人の弟、ミミさんも此の日を以て現世との別れとなりました。
4月5日。正后から始まった「近衞通隆を偲ぶ会」
ボチさん、貴方の唯一人の弟、ミミさんも此の日を以て現世との別れとなりました。
![]() | 霞山会館の天辺(てっぺん) 全フロアを使用しての偲ぶ会は、粛々(しゅくしゅく)と厳かに、一人一人の献花が続き――滞りなく礼拝は終わりました。俺らと息子隆道は、「親族控え室」で居心地の良くない思いでいましたが、窓から見る下界は素晴らしい眺めでした。皇居を眼下に拝み、青天の陽光を浴びた桜の開花が、ミミさんの昇天を祝福しているかの様でした。 |
![]() | 叔母が座ってる所に行き「お疲れでしょう」と云って腰に手を当てる。 「うん。でも今日は大丈夫よ」と周りに気を遣ってか、背を伸ばす。俺らも気付いて直ぐ手を離したが、周りの目が……見るともなく。叔母ちゃまの隣りに坐っていたのがボチさん、貴方の奥さんでした。 |
![]() | 暫くしての立食会は豪勢な料理で、接待係の女性が盛って来て呉れたが、俺らと息子は遠慮しました。とても食する気分ではなかったのです。所が、飲み物コーナーで日本酒を見つけ感動、なんと「八海山」があったのです。係りの男性が「近衞様がお気に入りだったので、用意しました」と云い乍ら、コップになみなみと注いで呉れました。 |
| オープンが近付いているスカイツリーや桜の東京を眺め乍らの立食会……取り立ててのスピーチもなく適当に、自由に退会という趣旨らしいので、数人の親しい人に挨拶――偲ぶ会を後にしました。 澄んだ青空の下、咲きゆく桜を眺め乍ら……一つの時代の終焉(しゅうえん)を感じる帰路でした。 俺(おい)らの「もう一つの戦争」は、未だ終わっていませんよ、ボチさん。 | |
つづく
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18:00
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2012年03月30日
もう一つの戦争 番外5
5. ボチさんへの通信1
ボチさん。あんたの弟ミミさんが逝って、明日は四十九日の法要です。4月5日は霞山会館最上階、37階で「近衞通隆を偲ぶ会」が執り行われますよ。
89才、大往生でした。最期の最期まで酒を娯しみ、最後の最後まで、霞山会の総帥で、現役の侭の卒業でした……合掌。
ミミさんより七つ上のボチさんは、41才で、卒業したくないのに命を絶たれましたね。
無念の死――とは、どんなだったでしょう。
ボチさんの父上も無念の死……。時代の波に翻弄(ほんろう)され、犠牲となって散った人達は、どんなに無念だったでしょうね。今もあの世で口惜しがっているでしょうね。今の、決して平和ではないが、人間らしい生活が送れているのは、ボチさん、貴方がたの犠牲のお陰です。
その犠牲を決して忘れてはならない。蔑(ないがし)ろにしてはならない。
二度と戦争を行ってはならない、起こさせてはならない。でないと、ボチさん達の犠牲を裏切る事になる。
ボチさん。貴方がたの死を無駄に、貴方がたの犠牲を無視する様な、現代の嘆かわしい風潮……申し訳なく思います。
ミミさんは良く「近衞の筋は短命が多い。だからボクは兄貴の分まで長く生きてやろうと思う」と張り切っていましたよ。最年長まで、あと少し、数年を残して、記録を伸ばせなかったが、先ず先ずの満足であった事は、その死に様で分かります。
ところで、67才の俺らは、ミミさんに逝かれて、直系の身内がいなくなりました。ボチさんの兄妹はミミさんが最後です。
ミミさんとは、巷の安酒場をよく梯子(はしご)しました。酒を酌み交わし乍ら、
「兄貴はね、兄貴はね」と、ボチさんの事をいっぱい教えて呉れましたよ。
その度に、ミミさんを通してボチさんに逢ってる様で、嬉しくて堪りませんでした。父を知らずに育った俺らにとって、ミミさんはボチさんの代役だったのかも知れない。否、父そのものだったかも……
明日は――四十九日。
ボチさん。あんたの弟ミミさんが逝って、明日は四十九日の法要です。4月5日は霞山会館最上階、37階で「近衞通隆を偲ぶ会」が執り行われますよ。
89才、大往生でした。最期の最期まで酒を娯しみ、最後の最後まで、霞山会の総帥で、現役の侭の卒業でした……合掌。
ミミさんより七つ上のボチさんは、41才で、卒業したくないのに命を絶たれましたね。
無念の死――とは、どんなだったでしょう。
ボチさんの父上も無念の死……。時代の波に翻弄(ほんろう)され、犠牲となって散った人達は、どんなに無念だったでしょうね。今もあの世で口惜しがっているでしょうね。今の、決して平和ではないが、人間らしい生活が送れているのは、ボチさん、貴方がたの犠牲のお陰です。
その犠牲を決して忘れてはならない。蔑(ないがし)ろにしてはならない。
二度と戦争を行ってはならない、起こさせてはならない。でないと、ボチさん達の犠牲を裏切る事になる。
ボチさん。貴方がたの死を無駄に、貴方がたの犠牲を無視する様な、現代の嘆かわしい風潮……申し訳なく思います。
ミミさんは良く「近衞の筋は短命が多い。だからボクは兄貴の分まで長く生きてやろうと思う」と張り切っていましたよ。最年長まで、あと少し、数年を残して、記録を伸ばせなかったが、先ず先ずの満足であった事は、その死に様で分かります。
ところで、67才の俺らは、ミミさんに逝かれて、直系の身内がいなくなりました。ボチさんの兄妹はミミさんが最後です。
ミミさんとは、巷の安酒場をよく梯子(はしご)しました。酒を酌み交わし乍ら、
「兄貴はね、兄貴はね」と、ボチさんの事をいっぱい教えて呉れましたよ。
その度に、ミミさんを通してボチさんに逢ってる様で、嬉しくて堪りませんでした。父を知らずに育った俺らにとって、ミミさんはボチさんの代役だったのかも知れない。否、父そのものだったかも……
明日は――四十九日。
つづく。
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16:40
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2012年03月19日
もう一つの戦争 番外4
4.サロンの夜は更けて
叔父の仏壇は、嘗(かつ)て、父、文麿公の自死した部屋に拵えられていた。
四十九日迄は御参りに来る人もいるので、お骨と共に此の侭にして置くらしい。
遺影と位牌の前に、コップ酒を供え、
「ありがとう、逝ってらっしゃい」と、コップを合わせ、戴いた。酒は叔父の大好きな「八海山」である。逝く日の10日前に乾杯をしたのも、荻外荘サロンのカウンターであった。
「やっぱり八海山は良いね」と、嬉しそうに舐(な)める叔父。嘗ての、グイっと呷(あお)る豪快さは消えていたが、目を細め、楽しそうに、じっくり味わう叔父の姿であった。俺ら夫婦が生前に見た、叔父の最後の姿であった。
叔母は、此の一ヵ月、忙しかった所為(せい)か、寝不足もあり、疲労感が取れないと云う。
それでは、と俺らは神主に早変わり、御祓(おはらい)となる。ゴットハンドの出番である。
此の御祓は痛いのだが、叔母は良く我慢する。
「痛くて、もう止めてと思うが、治るんだと思うと我慢出来る。不思議ねえ」と、終わった後いつも仰言(おっしゃ)る。
結果は何処も悪くなかった。只の疲れであった。血の循環が良くなったので、体も軽くなったらしい。俺らが御祓をする様になってから、叔父も叔母も病院に縁が薄くなった。叔父の最期も自宅であった。
荻外荘サロン。
此のカウンターで、毎月の様に叔父夫婦と甥夫婦が、酒盛りをして来た。
他愛もない四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせたものだ。その叔父も今はいない。
叔父の何時も坐(すわ)る席に俺らが据(すわ)り、4人で乾杯。
酒が進むに連れ、段々賑(にぎ)やかになって行く。
叔父は賑やかが大好きで、乗って来ると必ず極(きま)り文句。
「あんらー、楽しくなって来たぞー!」と、発する。それを合図に盛り上がり、ワイワイ、ガヤガヤと、賑々しくなって行ったものである。
その夜は俺らが「あんらー」をやって、荻外荘の夜は更けていく……。
叔父も喜んで呉れているに違いない。
否、一緒にいて参加している……かな。
叔父の仏壇は、嘗(かつ)て、父、文麿公の自死した部屋に拵えられていた。
四十九日迄は御参りに来る人もいるので、お骨と共に此の侭にして置くらしい。
遺影と位牌の前に、コップ酒を供え、
「ありがとう、逝ってらっしゃい」と、コップを合わせ、戴いた。酒は叔父の大好きな「八海山」である。逝く日の10日前に乾杯をしたのも、荻外荘サロンのカウンターであった。
「やっぱり八海山は良いね」と、嬉しそうに舐(な)める叔父。嘗ての、グイっと呷(あお)る豪快さは消えていたが、目を細め、楽しそうに、じっくり味わう叔父の姿であった。俺ら夫婦が生前に見た、叔父の最後の姿であった。
叔母は、此の一ヵ月、忙しかった所為(せい)か、寝不足もあり、疲労感が取れないと云う。
それでは、と俺らは神主に早変わり、御祓(おはらい)となる。ゴットハンドの出番である。
此の御祓は痛いのだが、叔母は良く我慢する。
「痛くて、もう止めてと思うが、治るんだと思うと我慢出来る。不思議ねえ」と、終わった後いつも仰言(おっしゃ)る。
結果は何処も悪くなかった。只の疲れであった。血の循環が良くなったので、体も軽くなったらしい。俺らが御祓をする様になってから、叔父も叔母も病院に縁が薄くなった。叔父の最期も自宅であった。
荻外荘サロン。
此のカウンターで、毎月の様に叔父夫婦と甥夫婦が、酒盛りをして来た。
他愛もない四方山話(よもやまばなし)に花を咲かせたものだ。その叔父も今はいない。
叔父の何時も坐(すわ)る席に俺らが据(すわ)り、4人で乾杯。
酒が進むに連れ、段々賑(にぎ)やかになって行く。
叔父は賑やかが大好きで、乗って来ると必ず極(きま)り文句。
「あんらー、楽しくなって来たぞー!」と、発する。それを合図に盛り上がり、ワイワイ、ガヤガヤと、賑々しくなって行ったものである。
その夜は俺らが「あんらー」をやって、荻外荘の夜は更けていく……。
叔父も喜んで呉れているに違いない。
否、一緒にいて参加している……かな。
つづく。
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17:06
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2012年03月15日
もう一つの戦争 番外3
3.萩外荘(てきがいそう)
3月11日、東北大震災一周年の慰霊祭のTV中継を観終わると、俺らは妻と二人で荻窪に向かった。
その日は2月11日に逝った叔父の月命日である。
夕刻の荻外荘の門は、何時もと違う荘厳さを感じた。
告別式の時は、叔父の棺を乗せた車が此の門を出て行くのを、邸内から見送った。出棺は、我が息子隆道が親族と共に車に乗せた。後に感想を訊くと、「重かった」と一言。
本門が堅く閉ざされているので、横の潜り戸を潜る。我等夫婦が5時に来るからと、潜り戸のロックは解除されていた。


(開門時の荻外荘 夏)
本宅門までの砂利道を進んで行くと、門の方から誰か歩いて来る。叔母である。お互いに手を振って歩み寄る。
「色々と有難う。今日もお忙しいのに」と言い乍ら深々と腰を折って呉れる。
「未だ寒いのに、わざわざ出て来なくても」
「なになに、寒くなんかないわよ」等と喋り乍ら屋敷内へ……。
此の一カ月間、人の出入りの応対や、色々な届出、手続き、処理、整理と忙しい日々を過ごし、叔父の死を悲しんだり、在りし日を懐かしんだりする時間は、片時もなかったらしい。
ほっと一息つける様になった今日、叔母と叔母の弟、そして甥夫婦の4人で夕食会となったのである。第一回の叔父を偲ぶ会と言った所か……。
正式な「近衛通隆を偲ぶ会」は4月5日、霞山会主催で霞が関の、霞山会館最上階で催される。
日中親善の為に色々尽力、貢献をした、霞山会名誉会長近衛通隆の偲ぶ会に相応しい、最上階でのお別れ会であり、送り会でもある。
派手嫌いの叔父にとっては、ちと面映ゆい……かも。
3月11日、東北大震災一周年の慰霊祭のTV中継を観終わると、俺らは妻と二人で荻窪に向かった。
その日は2月11日に逝った叔父の月命日である。
夕刻の荻外荘の門は、何時もと違う荘厳さを感じた。
告別式の時は、叔父の棺を乗せた車が此の門を出て行くのを、邸内から見送った。出棺は、我が息子隆道が親族と共に車に乗せた。後に感想を訊くと、「重かった」と一言。
本門が堅く閉ざされているので、横の潜り戸を潜る。我等夫婦が5時に来るからと、潜り戸のロックは解除されていた。


(開門時の荻外荘 夏)
本宅門までの砂利道を進んで行くと、門の方から誰か歩いて来る。叔母である。お互いに手を振って歩み寄る。
「色々と有難う。今日もお忙しいのに」と言い乍ら深々と腰を折って呉れる。
「未だ寒いのに、わざわざ出て来なくても」
「なになに、寒くなんかないわよ」等と喋り乍ら屋敷内へ……。
此の一カ月間、人の出入りの応対や、色々な届出、手続き、処理、整理と忙しい日々を過ごし、叔父の死を悲しんだり、在りし日を懐かしんだりする時間は、片時もなかったらしい。
ほっと一息つける様になった今日、叔母と叔母の弟、そして甥夫婦の4人で夕食会となったのである。第一回の叔父を偲ぶ会と言った所か……。
正式な「近衛通隆を偲ぶ会」は4月5日、霞山会主催で霞が関の、霞山会館最上階で催される。
日中親善の為に色々尽力、貢献をした、霞山会名誉会長近衛通隆の偲ぶ会に相応しい、最上階でのお別れ会であり、送り会でもある。
派手嫌いの叔父にとっては、ちと面映ゆい……かも。
つづく。
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2012年03月12日
東 隆明のキーワード15 我が身に起きる――と
15.我が身に起きる――と
3月11日は世界的不幸の大忌念日である。午後2時46分、1分間の祈念黙祷が始まった。日本全国、世界の各地で、それぞれの想いを込めた被災者への慰霊、平和、無事への願い……。長い、深い、ゆっくりと重い1分間であった。
慰霊祭の会場での天皇陛下のスピーチには、重篤の体を押してのその御姿には、亡くなった人達への思いが滲んでいるかの様だ。
被災者代表は、三人共家族を亡くした人達である。
日が増す毎に悲しみも増し、抑え様のない怒り、絶望感を何処へ持って行けば良いのか、神は居るのか……。
息子と代わってやれない自分への悔しさ……。息子は結婚した許りで、その日、3月11日は入籍届けを出す日であった。新妻のお腹には子供がいる。嘆いて許りもいられない。母として、嫁とやがて生まれて来る孫の為にも強く生きねばならない。励まし、援助して呉れる人達への感謝と、復興再生への思いを、ゆっくりと、しっかりと話し掛ける様な言葉であった。
皆、泣いている。俺らもTVの前で泣いた。涙で眼が曇って、画面が見えなくなった。
避ける事の出来ない天災。天災は忘れた頃にやって来る。
予測が出来ない、想像もしない時に、突然やって来て、瞬時に人の命を奪って行く……天災。
天災に限らず、突然人の命を奪う事件事故は毎日起きている。
「今、次の瞬間、我が身に起きる」と思って生きねばならない。
そう思えば、今日無事だった事に感謝し、眠りに就く事が出来る。
明日は誰にも分からぬ事だから、今日を充実した日にする事が出来る。一分一秒先を予言する者はインチキである。偽者である。
人の世は短く長く ひたすらに
生きてこそある 今のやすらぎ
今生明死
3月11日は世界的不幸の大忌念日である。午後2時46分、1分間の祈念黙祷が始まった。日本全国、世界の各地で、それぞれの想いを込めた被災者への慰霊、平和、無事への願い……。長い、深い、ゆっくりと重い1分間であった。
慰霊祭の会場での天皇陛下のスピーチには、重篤の体を押してのその御姿には、亡くなった人達への思いが滲んでいるかの様だ。
被災者代表は、三人共家族を亡くした人達である。
日が増す毎に悲しみも増し、抑え様のない怒り、絶望感を何処へ持って行けば良いのか、神は居るのか……。
息子と代わってやれない自分への悔しさ……。息子は結婚した許りで、その日、3月11日は入籍届けを出す日であった。新妻のお腹には子供がいる。嘆いて許りもいられない。母として、嫁とやがて生まれて来る孫の為にも強く生きねばならない。励まし、援助して呉れる人達への感謝と、復興再生への思いを、ゆっくりと、しっかりと話し掛ける様な言葉であった。
皆、泣いている。俺らもTVの前で泣いた。涙で眼が曇って、画面が見えなくなった。
避ける事の出来ない天災。天災は忘れた頃にやって来る。
予測が出来ない、想像もしない時に、突然やって来て、瞬時に人の命を奪って行く……天災。
天災に限らず、突然人の命を奪う事件事故は毎日起きている。
「今、次の瞬間、我が身に起きる」と思って生きねばならない。
そう思えば、今日無事だった事に感謝し、眠りに就く事が出来る。
明日は誰にも分からぬ事だから、今日を充実した日にする事が出来る。一分一秒先を予言する者はインチキである。偽者である。
人の世は短く長く ひたすらに
生きてこそある 今のやすらぎ
今生明死
もう一つの戦争に……つづく。
2012年03月07日
もう一つの戦争 番外2
2. 文麿の自殺
「ミミさん、これからは民主主義の世の中だよ。君も一市民として、質素に約(つま)しく生きなきゃね」
「ミミさん」とは通隆の家族間の通称である。
今後の日本の行く末、近衞家の在り方を酒を汲み汲み、語り合う親と子……
「そろそろ寝ようか ミミさん」午前二時を過ぎていた。
「ハイ、お孟(もう)様」 自室への廊下を歩き乍ら、通隆はその胸に父への別れを告げた。
文麿の部屋の襖を隔て、文麿夫人は正座の侭夫を見送った。静かな静かな別れであった。
文麿は総理を辞する前から、秘かに仲の良い医者に頼み、青酸カリを貰い受けていた。何日、何処ででも死ねる様に、懐に忍ばせていた。
名医の用意した薬は、見苦しく死なぬ様に調合されていて、正しく「眠る様な最期であった」と、後になって通隆は母から聞いた。
文麿の長男文隆(俺らの父)は、自由奔放、豪放磊落(ごうほうらいらく)、実に大らかな人柄であったらしい。
自分の身分にも無頓着で、誰とでも親しく差別はしなかった。
ミミさんに父の事を聞くと、何時もニッコリとして、遠くを見る様に、その武勇伝や痛快なるエピソードを語って呉れた。
世間には知られていない、吃驚仰天の行状振舞は、聞けば聞く程途方もない大きさを伺わせる。
「兎に角、座に兄貴が入って来ると、パーッと明るく、雰囲気がコロッと変わるんだよ。皆を楽しくさせる天才だね、兄貴は」
ミミさんは兄貴が大好きで大好きで憧れであったらしい。
豪快な近衞文隆、その41年の人生はどんなだったのか……
「ミミさん、これからは民主主義の世の中だよ。君も一市民として、質素に約(つま)しく生きなきゃね」
「ミミさん」とは通隆の家族間の通称である。
今後の日本の行く末、近衞家の在り方を酒を汲み汲み、語り合う親と子……
「そろそろ寝ようか ミミさん」午前二時を過ぎていた。
「ハイ、お孟(もう)様」 自室への廊下を歩き乍ら、通隆はその胸に父への別れを告げた。
文麿の部屋の襖を隔て、文麿夫人は正座の侭夫を見送った。静かな静かな別れであった。
文麿は総理を辞する前から、秘かに仲の良い医者に頼み、青酸カリを貰い受けていた。何日、何処ででも死ねる様に、懐に忍ばせていた。
名医の用意した薬は、見苦しく死なぬ様に調合されていて、正しく「眠る様な最期であった」と、後になって通隆は母から聞いた。
文麿の長男文隆(俺らの父)は、自由奔放、豪放磊落(ごうほうらいらく)、実に大らかな人柄であったらしい。
自分の身分にも無頓着で、誰とでも親しく差別はしなかった。
ミミさんに父の事を聞くと、何時もニッコリとして、遠くを見る様に、その武勇伝や痛快なるエピソードを語って呉れた。
世間には知られていない、吃驚仰天の行状振舞は、聞けば聞く程途方もない大きさを伺わせる。
「兎に角、座に兄貴が入って来ると、パーッと明るく、雰囲気がコロッと変わるんだよ。皆を楽しくさせる天才だね、兄貴は」
ミミさんは兄貴が大好きで大好きで憧れであったらしい。
豪快な近衞文隆、その41年の人生はどんなだったのか……
つづく。
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16:57
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2012年02月21日
もう一つの戦争 番外1
1.近衞通隆逝く
2月11日、叔父逝去。享年89才。自宅荻外荘の自室ベッドで少し呼吸が乱れ、妻節子に胸を撫でて貰い、呼吸が楽になるも身体が冷たくなり始め救急車を呼ぶ。
病院で蘇生マッサージをするも、暫しの後、死亡確認。静かに眠るが如く、大往生である。死因、心不全。見事な引き際である。
近衞家は藤原姓の時代から太平洋戦争に突入するまで、その時代時代の節目に大きな役割と影響を及ぼしている。
そして非業の死を遂げる家系でもある。
五摂家(ごせっけ)筆頭の近衞家だが、近年の悲劇は著しい。
近衞文麿(祖父)。太平洋戦争直前までの首相。戦争反対と阻止の努力も空しく、陸軍の暴走は国を破滅へと突き進む。
近衞は内閣を解散する。その二ヵ月後――
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃を以て開戦となり、日本は破滅へと向かう。
昭和20年8月15日。3年8ヶ月の長い負け戦は、天皇の玉音に依って終了した。量り知れない多くの犠牲と悲劇の礎の元に終止符が打たれた。
東京裁判直前、文麿は第二次大戦時の中国侵攻等の責任と天皇を護る為に、荻外荘の自宅にて服毒自殺。
裁判にて、弁解や命乞いを選ばず、黙して静かに逝った。孤高な宰相(さいしょう)の誇りに満ちた最期であった。
死の前夜。
文麿は次男道隆を自室に呼び、酒を汲み交わした。
静かで淡々とした口調の文麿は、ニッコリとして言った。
2月11日、叔父逝去。享年89才。自宅荻外荘の自室ベッドで少し呼吸が乱れ、妻節子に胸を撫でて貰い、呼吸が楽になるも身体が冷たくなり始め救急車を呼ぶ。
病院で蘇生マッサージをするも、暫しの後、死亡確認。静かに眠るが如く、大往生である。死因、心不全。見事な引き際である。
近衞家は藤原姓の時代から太平洋戦争に突入するまで、その時代時代の節目に大きな役割と影響を及ぼしている。
そして非業の死を遂げる家系でもある。
五摂家(ごせっけ)筆頭の近衞家だが、近年の悲劇は著しい。
近衞文麿(祖父)。太平洋戦争直前までの首相。戦争反対と阻止の努力も空しく、陸軍の暴走は国を破滅へと突き進む。
近衞は内閣を解散する。その二ヵ月後――
昭和16年12月8日、真珠湾攻撃を以て開戦となり、日本は破滅へと向かう。
昭和20年8月15日。3年8ヶ月の長い負け戦は、天皇の玉音に依って終了した。量り知れない多くの犠牲と悲劇の礎の元に終止符が打たれた。
東京裁判直前、文麿は第二次大戦時の中国侵攻等の責任と天皇を護る為に、荻外荘の自宅にて服毒自殺。
裁判にて、弁解や命乞いを選ばず、黙して静かに逝った。孤高な宰相(さいしょう)の誇りに満ちた最期であった。
死の前夜。
文麿は次男道隆を自室に呼び、酒を汲み交わした。
静かで淡々とした口調の文麿は、ニッコリとして言った。
つづく。
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2012年02月10日
東 隆明のキーワード14 自然七訓を唱えれば
14.自然七訓を唱えれば
自然に沿うには難しいお経や哲学は要らぬ。極極(ごくごく)普通に、自然に生きれば、先ず、自分の周りには災害は及ばないだろう。病にも罹らないだろう。そういう人が、あちこちに出現すれば、どんどん災害は減る。
愛の和が広がれば、広がった分災害が、天罰が遠慮して呉れる。
その為には心魂を磨き、磨き合える場が沢山必要なのである。コミュニケーション広場(サロン)が……。
先ず、自分の身心を浄めなければ、穢(けが)れた侭では磨く事は叶わない。
清める方法は簡単である。七訓を唱える丈で良い。
自然七訓(天恵堂、『ホント八百』参照)
一、自然とは自然(自念)の事である。
二、自然とは当然(あたりまえ)の事である。
三、自然とは自らを然(しか)りとする事である。
四、自然とは己れを捨てて人の為に念ずる事である。
五、自然とは今日を生き明日死する事である。
六、自然とは大我大欲を以て生きる事である。
七、自然とは全宇宙の摂理に融け込む事である。
この七訓を洗面所に貼っておいて
毎朝、洗顔を終えた時に、繰り返し三度発声すれば良い。
☆効能、効果
声を発する事に依って
血流が良くなり
頭がスッキリする
五臓六腑が活発になる
唱えた後鏡を見れば、眼に勢いがあり、生き活きした顔になっている事に
気付く。故に、一日中楽しく良い仕事が出来る。良きコミュニケーションが
出来る。
自然に沿うには難しいお経や哲学は要らぬ。極極(ごくごく)普通に、自然に生きれば、先ず、自分の周りには災害は及ばないだろう。病にも罹らないだろう。そういう人が、あちこちに出現すれば、どんどん災害は減る。
愛の和が広がれば、広がった分災害が、天罰が遠慮して呉れる。
その為には心魂を磨き、磨き合える場が沢山必要なのである。コミュニケーション広場(サロン)が……。
先ず、自分の身心を浄めなければ、穢(けが)れた侭では磨く事は叶わない。
清める方法は簡単である。七訓を唱える丈で良い。
自然七訓(天恵堂、『ホント八百』参照)
一、自然とは自然(自念)の事である。
二、自然とは当然(あたりまえ)の事である。
三、自然とは自らを然(しか)りとする事である。
四、自然とは己れを捨てて人の為に念ずる事である。
五、自然とは今日を生き明日死する事である。
六、自然とは大我大欲を以て生きる事である。
七、自然とは全宇宙の摂理に融け込む事である。
この七訓を洗面所に貼っておいて
毎朝、洗顔を終えた時に、繰り返し三度発声すれば良い。
☆効能、効果
声を発する事に依って
血流が良くなり
頭がスッキリする
五臓六腑が活発になる
唱えた後鏡を見れば、眼に勢いがあり、生き活きした顔になっている事に
気付く。故に、一日中楽しく良い仕事が出来る。良きコミュニケーションが
出来る。
つづく。
2012年02月09日
東 隆明のキーワード13 自然に沿って
13.自然に沿って
地震、津波、火事等に依る被害丈が被災ではない。
人間は大自然の摂理に依って生まれ生かされ、その恩恵に感謝し、その摂理に沿って生きねばならない。
その大恩を忘れ裏切り背いて来た事が、当然の如く今大罰を受けている。この大罰はまだまだ続く、トコトン続く。取り返しのつかない程の大罪を犯した地球人は、身を以て大罰を受けねばならない。
人が人を傷(いた)め憎しみを植え、培養し、やがて大きな爆発となり、殺戮――戦争へと突き進む。
今、世界のあちこちで起きている災害は、人間が戦争に依って人心を、大自然を破壊してはならぬという警告である。
科学者の云う自然のメカニズムの統計、確率は或る程度の目安とはなるが、では、それが何時起きるかは大自然に頼るしかない。
自然を観れば分かる。
目を凝らし、耳を澄ませば、自然に判る。
自然に沿って生きれば誰でも解る。
自然破壊を直ちに止めれば、その分天罰も和らぐ。
懲(こ)りずに破壊を続ければ、その分的確に、即天罰が下される。待っては呉れない。
大いなる反省の元に償いをしなければならない。
皆、人を愛し、人の為に働き、自然に感謝し扶け合って生きれば、天の怒りは鎮まる。メカニズムを変えてくれる。先に延ばして呉れる。
地震、津波、火事等に依る被害丈が被災ではない。
人間は大自然の摂理に依って生まれ生かされ、その恩恵に感謝し、その摂理に沿って生きねばならない。
その大恩を忘れ裏切り背いて来た事が、当然の如く今大罰を受けている。この大罰はまだまだ続く、トコトン続く。取り返しのつかない程の大罪を犯した地球人は、身を以て大罰を受けねばならない。
人が人を傷(いた)め憎しみを植え、培養し、やがて大きな爆発となり、殺戮――戦争へと突き進む。
今、世界のあちこちで起きている災害は、人間が戦争に依って人心を、大自然を破壊してはならぬという警告である。
科学者の云う自然のメカニズムの統計、確率は或る程度の目安とはなるが、では、それが何時起きるかは大自然に頼るしかない。
自然を観れば分かる。
目を凝らし、耳を澄ませば、自然に判る。
自然に沿って生きれば誰でも解る。
自然破壊を直ちに止めれば、その分天罰も和らぐ。
懲(こ)りずに破壊を続ければ、その分的確に、即天罰が下される。待っては呉れない。
大いなる反省の元に償いをしなければならない。
皆、人を愛し、人の為に働き、自然に感謝し扶け合って生きれば、天の怒りは鎮まる。メカニズムを変えてくれる。先に延ばして呉れる。
つづく。
2012年02月03日
東 隆明のキーワード12 やる事やれば
12.やる事やれば
災害からもう直ぐ11ヵ月になる。新たに襲い来る厳冬被害に為す術もなく、豪雪の去るのを唯々待つのみである。
どんなに進歩進化したと云っても、自然の猛威には人間は無力である。何時災害が襲って来るか、予測する事も出来ない。
自分の住居空間は大丈夫だろうか。メディアで科学者や研究家のデータや確率の説明があると、視聴率が上がる。皆、我が家、家族は大丈夫だろうかと不安が募っているのである。
然し、誰一人として次は何処だ、その次は何処だと、その時期も含めて予測する事は出来ない。
結局科学者は、何時地震が何処に起きても可笑しくない、と云うしかない。
報道は徒に国民の不安を募らせる丈である。
「何時? 何処?」じゃなくて、今此処に起きたら?
明日此処に起きたら、どうする? 起きるとしてどうする!と、災害が来る事を前提として、覚悟をしなければならない。
そして、具体的な方法と備えを、今直ぐ実行しなくてはならない。
為す事もせず、情報に振り回され、懐疑的な生活を送ってはならない。醜い愚かな姿である。
我が身の保身を第一とせず、大切な人を思う事、大事な人を護る為に、今を生きる事。それが一番大切で素晴らしい姿である。
そうすると、何をすべきかが必然的に現れて来る。
覚悟が出来、腹が据わり、方法も準備も迷いなく、行動がスムーズに出来る。
やる事やれば、後は天に任せれば良い。良い天裁が下る。
心に平安がやって来る。じたばたしないで済む。
人間は生まれ来て――――死す
此の――――の中に人生がある
生き様がある
災害からもう直ぐ11ヵ月になる。新たに襲い来る厳冬被害に為す術もなく、豪雪の去るのを唯々待つのみである。
どんなに進歩進化したと云っても、自然の猛威には人間は無力である。何時災害が襲って来るか、予測する事も出来ない。
自分の住居空間は大丈夫だろうか。メディアで科学者や研究家のデータや確率の説明があると、視聴率が上がる。皆、我が家、家族は大丈夫だろうかと不安が募っているのである。
然し、誰一人として次は何処だ、その次は何処だと、その時期も含めて予測する事は出来ない。
結局科学者は、何時地震が何処に起きても可笑しくない、と云うしかない。
報道は徒に国民の不安を募らせる丈である。
「何時? 何処?」じゃなくて、今此処に起きたら?
明日此処に起きたら、どうする? 起きるとしてどうする!と、災害が来る事を前提として、覚悟をしなければならない。
そして、具体的な方法と備えを、今直ぐ実行しなくてはならない。
為す事もせず、情報に振り回され、懐疑的な生活を送ってはならない。醜い愚かな姿である。
我が身の保身を第一とせず、大切な人を思う事、大事な人を護る為に、今を生きる事。それが一番大切で素晴らしい姿である。
そうすると、何をすべきかが必然的に現れて来る。
覚悟が出来、腹が据わり、方法も準備も迷いなく、行動がスムーズに出来る。
やる事やれば、後は天に任せれば良い。良い天裁が下る。
心に平安がやって来る。じたばたしないで済む。
人間は生まれ来て――――死す
此の――――の中に人生がある
生き様がある
つづく。
2012年01月31日
東隆明のキーワード 11 心の熱さ、思いやり
11.心の熱さ、思いやり
災害時に命辛辛(いのちからがら)避難所に駆け込んだ人達は、その殆どが着の身着の侭、ごった返す混雑の中で、支給された毛布に包(くる)まり、自分の寝場所を探(み)つけ、震え乍ら眠れない夜を明かす。
3月11日午後2時46分、地震。その30分後にやって来た二次災害は、建物や人を呑み込み、その津波は町や村を完膚無きまでに破壊した。
つい先刻までは何事もない、平和な風光明媚な海辺の町である。
この大震災は人々の思い出さえも浚って行った。
災害時のライフラインは大変である。
コンビニも商店も何もない。
市や町の職員も等しく被災者である。行方不明者も多い。それでも何とか機能させ、おにぎりを一個ずつ配給出来た。
そんな壊滅状況に、救世主の如く駆け付けたのはボランティアの人達である。これだけ災害が相次いでいるのに国の対応はボランティアの即応には叶わない。
ボランティアの愛の救助に計算打算はない。行動が早い。
取り敢えず駆け付ける。そして、今眼の前にある、今出来る事から行動する。行動しながら次を考える。
公僕という名の国のお偉方は、政策政争が第一で、我が身を護る事には必死で、国民の為に動くのは第二である。我が身が一番、国民が第二。だから行動が遅れる。公僕ではない自僕である。
食事が何とか供給出来る様になると、次は衣服である。これは全国から届く支援物資に頼る所が大きい。衣服も続々と届く。着の身着の侭の人達にとって衣服の援助は大いに助かる。
東北の3月の寒さは厳しい。そんな中、届く衣服に熱い感謝の念が湧いて来る。「頑張らねば!」という思いが湧いて来る。
災害から得るものは、
人の心の熱さ――人の思いやり。
災害時に命辛辛(いのちからがら)避難所に駆け込んだ人達は、その殆どが着の身着の侭、ごった返す混雑の中で、支給された毛布に包(くる)まり、自分の寝場所を探(み)つけ、震え乍ら眠れない夜を明かす。
3月11日午後2時46分、地震。その30分後にやって来た二次災害は、建物や人を呑み込み、その津波は町や村を完膚無きまでに破壊した。
つい先刻までは何事もない、平和な風光明媚な海辺の町である。
この大震災は人々の思い出さえも浚って行った。
災害時のライフラインは大変である。
コンビニも商店も何もない。
市や町の職員も等しく被災者である。行方不明者も多い。それでも何とか機能させ、おにぎりを一個ずつ配給出来た。
そんな壊滅状況に、救世主の如く駆け付けたのはボランティアの人達である。これだけ災害が相次いでいるのに国の対応はボランティアの即応には叶わない。
ボランティアの愛の救助に計算打算はない。行動が早い。
取り敢えず駆け付ける。そして、今眼の前にある、今出来る事から行動する。行動しながら次を考える。
公僕という名の国のお偉方は、政策政争が第一で、我が身を護る事には必死で、国民の為に動くのは第二である。我が身が一番、国民が第二。だから行動が遅れる。公僕ではない自僕である。
食事が何とか供給出来る様になると、次は衣服である。これは全国から届く支援物資に頼る所が大きい。衣服も続々と届く。着の身着の侭の人達にとって衣服の援助は大いに助かる。
東北の3月の寒さは厳しい。そんな中、届く衣服に熱い感謝の念が湧いて来る。「頑張らねば!」という思いが湧いて来る。
災害から得るものは、
人の心の熱さ――人の思いやり。
つづく。
2012年01月30日
東隆明のキーワード 10
10.あそこには愛が
人の世(人生)は短くもあり長くもある
短いから不幸 長いから幸福とは云い切れない
問題は中身である。どう生きたかである。
不慮の事故で短い人生を終える人もいれば、順風満帆で長寿を全うする人もいる。どちらも中身が良ければ、感謝して呉れる人も多い。その長短に関わらず、喜びも大きく、その人生は素晴らしい。
人に嫌われ、恨まれ、無視されての長生きに価値はない。寧ろ、害である。そういう人は死して始めて喜ばれる。
「やっと死んだか」と。
愛に満ちた人生は、死して後も人の心に暖かく残る。
愛の乏しい人生は、生きていても人の心に宿らない。
愛を育むにはグローバルな「コミュニティサロン」が世界のあちこちに必要である。老若男女、人種の差別なく、誰でも気楽に訪れ、知り合い、友の輪を創っていく。
素晴らしいサロンがあれば、災害の復興も今迄の何倍も何百倍もスピードアップする事は、二十年前の普賢岳サロン、復興ビルの存在が立証している。
人の世(人生)は短くもあり長くもある
短いから不幸 長いから幸福とは云い切れない
問題は中身である。どう生きたかである。
不慮の事故で短い人生を終える人もいれば、順風満帆で長寿を全うする人もいる。どちらも中身が良ければ、感謝して呉れる人も多い。その長短に関わらず、喜びも大きく、その人生は素晴らしい。
人に嫌われ、恨まれ、無視されての長生きに価値はない。寧ろ、害である。そういう人は死して始めて喜ばれる。
「やっと死んだか」と。
愛に満ちた人生は、死して後も人の心に暖かく残る。
愛の乏しい人生は、生きていても人の心に宿らない。
愛を育むにはグローバルな「コミュニティサロン」が世界のあちこちに必要である。老若男女、人種の差別なく、誰でも気楽に訪れ、知り合い、友の輪を創っていく。
素晴らしいサロンがあれば、災害の復興も今迄の何倍も何百倍もスピードアップする事は、二十年前の普賢岳サロン、復興ビルの存在が立証している。
| (励ます会) | あそこに行けば誰かに逢える。 あそこに行けば色んな事を知り、教えられる。 色んな人に知って貰い、喜んで貰える。 あそこに行けば友情が芽生え、 心が豊かになる。 あそこには愛がある。
そんなサロンを各地で創ってくれれば… |
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つづく。
2012年01月27日
東隆明のキーワード 9 人と共に…
9.人と共に…
私と私の仲間は、皆が集まれる場所が急務と、島原市の真中にコミュニケーションサロンを建てた。皆貧乏になった。借金もした。未だに完済出来ないでいる。
そのサロンは「復興ビル」と名付けられ、その屋上には大きな文字で
「手をつなごう、愛ある故に人は輝く」と掲げられた。
人は一人では生まれて来ない
人は独りでは生きて行けない
一人が好き 人と話したくない
孤独が好き 人より花鳥や自然と語りたい
そんな人は可哀そう
人は人と触れ、語り合うから人間(人の間)という
孤独な自己中心の人は人間とは言わない 唯の「人」である。
そう云う人は無論嫌われる。そう云う人は嫌われたいのだ。
人間社会に居るのは無意味である。
何の役にも立たないそう云う人は、何処か山奥か無人島で勝手に余生を暮らせば良い。それなりにその人にとっては幸福なのであろう。
人は人との触れ合いによって成長する
人無くして、触れ合い無くして成長は有り得ない
コミュニケーションの中から喜びも悲しみも怒りも、慈しみも分かち合い、人は人との愛を育み成長して行くのである。
人の世は短く長く
ひたすらに
生きてこそある 今のやすらぎ
人と共に 今日を生く
私と私の仲間は、皆が集まれる場所が急務と、島原市の真中にコミュニケーションサロンを建てた。皆貧乏になった。借金もした。未だに完済出来ないでいる。
そのサロンは「復興ビル」と名付けられ、その屋上には大きな文字で
「手をつなごう、愛ある故に人は輝く」と掲げられた。
人は一人では生まれて来ない
人は独りでは生きて行けない
一人が好き 人と話したくない
孤独が好き 人より花鳥や自然と語りたい
そんな人は可哀そう
人は人と触れ、語り合うから人間(人の間)という
孤独な自己中心の人は人間とは言わない 唯の「人」である。
そう云う人は無論嫌われる。そう云う人は嫌われたいのだ。
人間社会に居るのは無意味である。
何の役にも立たないそう云う人は、何処か山奥か無人島で勝手に余生を暮らせば良い。それなりにその人にとっては幸福なのであろう。
人は人との触れ合いによって成長する
人無くして、触れ合い無くして成長は有り得ない
コミュニケーションの中から喜びも悲しみも怒りも、慈しみも分かち合い、人は人との愛を育み成長して行くのである。
人の世は短く長く
ひたすらに
生きてこそある 今のやすらぎ
人と共に 今日を生く
つづく。
2012年01月11日
東隆明のキーワード 8 手を結べば……
8. 手を結べば……
あの大震災から十ヵ月になる。国内、国外からの至る所から支援、援助の手が差し伸べられている現状ではあるが、復興の道は険しく、遅々として進まない…。それでも一歩一歩進んで行くしか道はない。
何よりも大きく成長したのは、原動力になったのは、支援物資でも政策による復旧工事、作業でもない。一人一人が起ち上がり、自立復興を目指したのである。依存心を捨てたその力が集まり、大きな力となった。災害の度合や立場で、それぞれの集会に別れていたのが、手を結び始め、大きな復興となって行った。そこに復興ビルの存在があった。
あの大震災から十ヵ月になる。国内、国外からの至る所から支援、援助の手が差し伸べられている現状ではあるが、復興の道は険しく、遅々として進まない…。それでも一歩一歩進んで行くしか道はない。
![]() | 今も荒れた我が家の瓦礫の前に立ち、行方不明の子供達の名を呼び続ける両親の姿がある。「嘆いてばかりは居られない。嘆いていても失った家族は帰らない。明日に向かって生きよう。元気を出して力強く、前に進むのが亡くした家族への慰めであり、供養なのだ」
なんて言葉が励ましにならない、寧ろ、虚無感を深め、増幅させる事にも……。 |
| 復興ビル | |
![]() | 復旧作業は少しずつ確実に進んで行くだろう。 だが、復興は難しい。
メンタルを中心とした人々の生活の営み、仕事の充実、活気あるコミュニケーションを復活させねばならない。例え何年何十年懸かろうとも……。 |
| 親睦会 | |
![]() | 二十年前の雲仙普賢岳の火砕流を思い出す。 十年経って、島原市長が完全復興宣言をした。災害以前にも増して見事な町が復興したのだ。人々は強くなった。逞しくなった。
|
| 会議 |
何よりも大きく成長したのは、原動力になったのは、支援物資でも政策による復旧工事、作業でもない。一人一人が起ち上がり、自立復興を目指したのである。依存心を捨てたその力が集まり、大きな力となった。災害の度合や立場で、それぞれの集会に別れていたのが、手を結び始め、大きな復興となって行った。そこに復興ビルの存在があった。
つづく。
2011年12月08日
東隆明のキーワード 7
7.復興サロンが……
島原復興の宣言が出来たのは、大火砕流から丸十年が経過した2001年6月3日の事である。
俺ら達の「自然会」は、その日まで色んな形で地元に密着し、翌6月4日には撤退した。長い年月であった。地元の人より地元に詳しい、と地元の人に言われる位、地元に馴染んでいたので、別れは辛かった。
その時の経験、体験が次々の災害のノウハウとなって役立っている。
中でも「復興ビル」の役割は大きい。家や道路や橋は時間と共に回復し、復興を遂げる、災害前より立派に再生する事が出来る。
が、人は、人の心は其処に住む人はそういう訳には行かない。
人の心が復興して、前よりまして立派に成長し、生き活きと生活出来なければ真の復興とは云えない。災転じて福と成す、前にも増して大きく自愛に満ちた人になって、初めて自立復興、応援して呉れた人達への恩返しとなる。
東北大震災の只中にあって、寒さの中沢山の人が現地に赴き、親身になって被災者の方達の世話や励ましの努力をして呉れている。
ライフラインが逼迫していた災害直後は、その世話や手伝いが非常に有難いものである。被災者にとっては神様にも見える。何の関係も何の繋がりもない見ず知らず人達が全国各地から駆け付けて呉れる。骨身を惜しまぬその献身に、被災者は涙して喜んだ。
が此処からである。ライフラインが落ち着き、仮設住宅や受け入れ先に収まった被災者達がホッとした矢先に襲って来るものは……
急襲して来る悲しみ、亡くした家族への想い、言い知れぬ淋しさ…虚無感と喪失感、明日への不安、目的も希望も持てない、自棄の状態……
こんな状況でボランティアはどんな手助けが出来るというのか。
震災から9ヵ月経った現在、大変困難な第二段階に入る。
此処からボランティアも脱落して行く。どんどん居なくなる。
「復興サロン」が必要となる。復興サロンとは?
島原復興の宣言が出来たのは、大火砕流から丸十年が経過した2001年6月3日の事である。
俺ら達の「自然会」は、その日まで色んな形で地元に密着し、翌6月4日には撤退した。長い年月であった。地元の人より地元に詳しい、と地元の人に言われる位、地元に馴染んでいたので、別れは辛かった。
その時の経験、体験が次々の災害のノウハウとなって役立っている。
中でも「復興ビル」の役割は大きい。家や道路や橋は時間と共に回復し、復興を遂げる、災害前より立派に再生する事が出来る。
が、人は、人の心は其処に住む人はそういう訳には行かない。
人の心が復興して、前よりまして立派に成長し、生き活きと生活出来なければ真の復興とは云えない。災転じて福と成す、前にも増して大きく自愛に満ちた人になって、初めて自立復興、応援して呉れた人達への恩返しとなる。
東北大震災の只中にあって、寒さの中沢山の人が現地に赴き、親身になって被災者の方達の世話や励ましの努力をして呉れている。
ライフラインが逼迫していた災害直後は、その世話や手伝いが非常に有難いものである。被災者にとっては神様にも見える。何の関係も何の繋がりもない見ず知らず人達が全国各地から駆け付けて呉れる。骨身を惜しまぬその献身に、被災者は涙して喜んだ。
が此処からである。ライフラインが落ち着き、仮設住宅や受け入れ先に収まった被災者達がホッとした矢先に襲って来るものは……
急襲して来る悲しみ、亡くした家族への想い、言い知れぬ淋しさ…虚無感と喪失感、明日への不安、目的も希望も持てない、自棄の状態……
こんな状況でボランティアはどんな手助けが出来るというのか。
震災から9ヵ月経った現在、大変困難な第二段階に入る。
此処からボランティアも脱落して行く。どんどん居なくなる。
「復興サロン」が必要となる。復興サロンとは?
つづく。
2011年12月01日
東隆明のキーワード 6
6.手を握れば、繋げば……2
東北大震災から八ヵ月が過ぎ、東北地方にとって例年より厳しい冬がやって来る。生まれてから恐らく初めての、地獄の、最悪の越冬生活に突入する。
跡形もない町、村…生活して来た故郷は、その残骸のカケラにも見出せず、ふる里は残りし者の記憶にのみ存在する。
全国から世界から、色々な形で支援や励ましの手が差し伸べられる中、力強くもあり感謝の日々でもある被災者である……
が、復興のメドが立たない、先が見えて来ない不安が、その焦燥感を募らせ、身も心も廃れて行く人も多い。
自殺者も増えている……
こんな時こそ一致団結、一丸、自立復興を目指して立ち上がらねばならない。
受身丈では何も進まない。行政に要求丈では復興は遠い。
同時進行で自分達が手を握り、繋ぎ、大きな輪となり復興して行かねばならない。
仮設住宅の冬は厳しい。簡易住宅だから外の寒さが部屋を襲う。火災でも発生したら、あっという間に類焼し、第二の大被害になる怖れがある。だから、石油やガスの暖房器は使えない。
家族が電気コタツに足を突っ込み、背を丸めて過ごす厳冬の冬籠り……。
その冬を何度過ごせば元の生活に戻る事が出来るのか、明るい希望が見えて来ない中、だからこそ、今こそ一人一人が奮い立って、手を握り繋ぎ、今出来る事から復興の一歩を歩み出さねばならない。
仮設住宅の一角には、コミュニケーションの出来る部屋が設けられているが、仲々利用する人が集まって来ない。折角の集会所が勿体ない、と思う人がいると思うが、現実はそんなものではない。
人、それぞれの被害状況、被害の大小が違う。どうしても自分と比べて了い、悲しみもより一層のものとなり、励まし合う所か険悪の状態になる事もある。
被災者同士、顔を合わせる事に依り、悲しみもより一層のものとなり、コミュニケーションを避けたい人もいるのだ――どうすれば良いのか…。
東北大震災から八ヵ月が過ぎ、東北地方にとって例年より厳しい冬がやって来る。生まれてから恐らく初めての、地獄の、最悪の越冬生活に突入する。
跡形もない町、村…生活して来た故郷は、その残骸のカケラにも見出せず、ふる里は残りし者の記憶にのみ存在する。
全国から世界から、色々な形で支援や励ましの手が差し伸べられる中、力強くもあり感謝の日々でもある被災者である……
が、復興のメドが立たない、先が見えて来ない不安が、その焦燥感を募らせ、身も心も廃れて行く人も多い。
自殺者も増えている……
こんな時こそ一致団結、一丸、自立復興を目指して立ち上がらねばならない。
受身丈では何も進まない。行政に要求丈では復興は遠い。
同時進行で自分達が手を握り、繋ぎ、大きな輪となり復興して行かねばならない。
仮設住宅の冬は厳しい。簡易住宅だから外の寒さが部屋を襲う。火災でも発生したら、あっという間に類焼し、第二の大被害になる怖れがある。だから、石油やガスの暖房器は使えない。
家族が電気コタツに足を突っ込み、背を丸めて過ごす厳冬の冬籠り……。
その冬を何度過ごせば元の生活に戻る事が出来るのか、明るい希望が見えて来ない中、だからこそ、今こそ一人一人が奮い立って、手を握り繋ぎ、今出来る事から復興の一歩を歩み出さねばならない。
仮設住宅の一角には、コミュニケーションの出来る部屋が設けられているが、仲々利用する人が集まって来ない。折角の集会所が勿体ない、と思う人がいると思うが、現実はそんなものではない。
人、それぞれの被害状況、被害の大小が違う。どうしても自分と比べて了い、悲しみもより一層のものとなり、励まし合う所か険悪の状態になる事もある。
被災者同士、顔を合わせる事に依り、悲しみもより一層のものとなり、コミュニケーションを避けたい人もいるのだ――どうすれば良いのか…。
つづく。
2011年11月14日
東隆明のキーワード 5
5.手を握れば、繋げば……1
欧米では人との挨拶に握手をする事が多い。特に初対面で人に引き合わされた時、
「よろしく」という意味で、ニコニコと握手する。良き友人になれます様にと、期待を込めた握りっこである。
そして、別れる時に再び握手をすれば、双方共に気に入り、
「今後もよろしく」と固い握手となる。
日本ではどうだろう……。日本人同志の握手は、あまり見掛けないねえ。
日本では紹介されると、ペコッとお辞儀をするか、利害が絡むか、身分(肩書)を明かす為に名刺を取り出し交換する。大抵の日本人は、この光景から始まる事が多い。
そして、お互いに気に入り、今後の交際を深めようと、別れの際に握手となる。
日本人の握手は、立場が五分五分であったり、利害が一致した時に起きる、現象であり証明でもある。
欧米では、利害が絡もうが絡むまいが、友達になりたかろうがなかろうが、身分の高低に拘わらず気楽に握手する。だから、握手にあまり重みはない。
日本人にも似た人種が居る。政治家に多い。
有権者だと、誰とでもお構いなく、ニコニコと握手を求める。敵対する相手にでも、嬉しそうに何度も、上下に大きく振りながら握手する。軽々しく、底の浅い握手である。不可解な、不愉快な見たくもない光景である。
すべからく、その場を取繕うだけの挨拶、握手は醜いものである。
元来、握手は尊いものでなければならない。
握手は、素直に交流を求める、誠実な行為でなければならない。
その光景は、観た目にも微笑ましいものでなくてはならない。
手を握れば相手の暖かさが伝わって来る。
それが、ホンモノの握手だ。
手を握れば…繋がりが生まれる。
亦、ひとつ幸福がやって来る。
欧米では人との挨拶に握手をする事が多い。特に初対面で人に引き合わされた時、
「よろしく」という意味で、ニコニコと握手する。良き友人になれます様にと、期待を込めた握りっこである。
そして、別れる時に再び握手をすれば、双方共に気に入り、
「今後もよろしく」と固い握手となる。
日本ではどうだろう……。日本人同志の握手は、あまり見掛けないねえ。
日本では紹介されると、ペコッとお辞儀をするか、利害が絡むか、身分(肩書)を明かす為に名刺を取り出し交換する。大抵の日本人は、この光景から始まる事が多い。
そして、お互いに気に入り、今後の交際を深めようと、別れの際に握手となる。
日本人の握手は、立場が五分五分であったり、利害が一致した時に起きる、現象であり証明でもある。
欧米では、利害が絡もうが絡むまいが、友達になりたかろうがなかろうが、身分の高低に拘わらず気楽に握手する。だから、握手にあまり重みはない。
日本人にも似た人種が居る。政治家に多い。
有権者だと、誰とでもお構いなく、ニコニコと握手を求める。敵対する相手にでも、嬉しそうに何度も、上下に大きく振りながら握手する。軽々しく、底の浅い握手である。不可解な、不愉快な見たくもない光景である。
すべからく、その場を取繕うだけの挨拶、握手は醜いものである。
元来、握手は尊いものでなければならない。
握手は、素直に交流を求める、誠実な行為でなければならない。
その光景は、観た目にも微笑ましいものでなくてはならない。
手を握れば相手の暖かさが伝わって来る。
それが、ホンモノの握手だ。
手を握れば…繋がりが生まれる。
亦、ひとつ幸福がやって来る。
つづく。
2011年11月09日
東隆明のキーワード 4
4.手当は百薬の長 2.
昔は、子供が熱を出したり怪我をすると、肉親が一生懸命看病したものである。
が、昨今の親は直ぐに薬や医者に頼り、自分が子供を治そうとしない。そういった事も親子関係の希薄さや絆の浅さに繋がっているのかも知れない。
本当は親の看病が、手当が一番効くのである。親の愛の手が奇跡をも生むのである。
薬や医者の効能は、対症療法に過ぎず、親の深い愛には叶わない。
愛の手、愛の手当は子供の自己治癒力を高め、親に対する感謝、尊敬を深める。手を抜いて、他人に委ねるから尊敬されない。愛の浅い子供に育ち、薄情な大人になって了う。
子供を助ける為には、命を懸けても身代りになっても喜んで死ねる、それが本当の、当り前の、素晴らしい親である。その子は又、素晴らしい親になる。それが、素晴らしい繰り返し、因果応報、素的なカルマである。
人は、多くの人は自分の手に力が有る事を知らない。
そんな力が有る訳がない、と思っている。
自分に自信が無い。信じようとしない。だから始めから諦めて他に頼る、依存する。一寸試して見て、効きめがないと、やっぱり駄目だと諦める。愛が浅いのである。
愛が深ければ深い程、手の力は強くなる。
想いの、念の力が、その手を通して我が子の血に、細胞に元気を与える。見る見る快方に向かって行くのである。これが本当の手当、手の術、手術である。
人は、置き忘れて来た「手当」を思い出し、愛する人を助けねばならない。
諦めずに手当を鍛えれば、どんどん力が付き、肉親を越えて他人をも救える様になる。
手当は百薬の長である。
昔は、子供が熱を出したり怪我をすると、肉親が一生懸命看病したものである。
が、昨今の親は直ぐに薬や医者に頼り、自分が子供を治そうとしない。そういった事も親子関係の希薄さや絆の浅さに繋がっているのかも知れない。
本当は親の看病が、手当が一番効くのである。親の愛の手が奇跡をも生むのである。
薬や医者の効能は、対症療法に過ぎず、親の深い愛には叶わない。
愛の手、愛の手当は子供の自己治癒力を高め、親に対する感謝、尊敬を深める。手を抜いて、他人に委ねるから尊敬されない。愛の浅い子供に育ち、薄情な大人になって了う。
子供を助ける為には、命を懸けても身代りになっても喜んで死ねる、それが本当の、当り前の、素晴らしい親である。その子は又、素晴らしい親になる。それが、素晴らしい繰り返し、因果応報、素的なカルマである。
人は、多くの人は自分の手に力が有る事を知らない。
そんな力が有る訳がない、と思っている。
自分に自信が無い。信じようとしない。だから始めから諦めて他に頼る、依存する。一寸試して見て、効きめがないと、やっぱり駄目だと諦める。愛が浅いのである。
愛が深ければ深い程、手の力は強くなる。
想いの、念の力が、その手を通して我が子の血に、細胞に元気を与える。見る見る快方に向かって行くのである。これが本当の手当、手の術、手術である。
人は、置き忘れて来た「手当」を思い出し、愛する人を助けねばならない。
諦めずに手当を鍛えれば、どんどん力が付き、肉親を越えて他人をも救える様になる。
手当は百薬の長である。
つづく。
2011年11月04日
東隆明のキーワード 3
3.手当は百薬の長1.
俺らは幼少のみぎり、よく風邪をひいたそうな。戦後の焦土の中、日本全土貧に窮していたが、中でも我が家は究極の、最低の最悪のどん底生活であった。
一家六人の生活の為に、少しでも多くの収入をと、母は大阪に住込み芸者で出稼ぎに行っていた。
俺らは祖母に育てられたが、その祖母は俺らが五才の時、栄養失調で死んだ。
母親からの送金は祖父の飲む・打つ・買うに化け、家族の飢えの足しにはならなかった。娘を食い物にし、家族を見殺しにしても平気な極悪非道なケダモノである。勿論、ロクな死に方をしなかったのは当然の事である。
祖母は死ぬ迄、片時も俺らを放さず、僅かな食料も俺らの口に入れ、自分は水ばかり飲んでいたそうである。初孫で最後の孫となる俺らを、眼の中に入れても痛くないと、可愛いがって呉れたそうな。
旨いものも薬も買えない家庭である。
風邪をひいている俺らの鼻水を、祖母は自分の口で吸い、呑み込んで呉れたと云う。そして、俺らの額と心臓に手を当て、
「熱よ引け」「治れ、治れ」と、一生懸命祈って呉れたそうな。
そうすると、皆が不思議がる程、熱が下がりだし、俺らに元気が戻って来たという。
祖母の手は「神様の手」と称ばれる様になった。
所が、此の神様の手の効能は、他の人には通じなかったらしい。噂を聞いた近所の人が頼みに来ても、祖母は手を当てなかった。我が娘、息子にも当てなかった。孫の俺らにしか手当が効かない事を祖母は悟っていたらしい。
「この子は神の子だ、この子は絶対死なせない、この子は私が守る」と、我が身を削り、俺らの手当に子育てにと身命を懸け……死んで逝った。
祖母は俺らの身代りになったのである。
俺らは幼少のみぎり、よく風邪をひいたそうな。戦後の焦土の中、日本全土貧に窮していたが、中でも我が家は究極の、最低の最悪のどん底生活であった。
一家六人の生活の為に、少しでも多くの収入をと、母は大阪に住込み芸者で出稼ぎに行っていた。
俺らは祖母に育てられたが、その祖母は俺らが五才の時、栄養失調で死んだ。
母親からの送金は祖父の飲む・打つ・買うに化け、家族の飢えの足しにはならなかった。娘を食い物にし、家族を見殺しにしても平気な極悪非道なケダモノである。勿論、ロクな死に方をしなかったのは当然の事である。
祖母は死ぬ迄、片時も俺らを放さず、僅かな食料も俺らの口に入れ、自分は水ばかり飲んでいたそうである。初孫で最後の孫となる俺らを、眼の中に入れても痛くないと、可愛いがって呉れたそうな。
旨いものも薬も買えない家庭である。
風邪をひいている俺らの鼻水を、祖母は自分の口で吸い、呑み込んで呉れたと云う。そして、俺らの額と心臓に手を当て、
「熱よ引け」「治れ、治れ」と、一生懸命祈って呉れたそうな。
そうすると、皆が不思議がる程、熱が下がりだし、俺らに元気が戻って来たという。
祖母の手は「神様の手」と称ばれる様になった。
所が、此の神様の手の効能は、他の人には通じなかったらしい。噂を聞いた近所の人が頼みに来ても、祖母は手を当てなかった。我が娘、息子にも当てなかった。孫の俺らにしか手当が効かない事を祖母は悟っていたらしい。
「この子は神の子だ、この子は絶対死なせない、この子は私が守る」と、我が身を削り、俺らの手当に子育てにと身命を懸け……死んで逝った。
祖母は俺らの身代りになったのである。
つづく。















